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6月 北方領土交渉秘録~失われた5度の機会

(著者)東郷和彦(新潮社)*07年5月25日発行
<読んだ経緯>
・6/11に京都産業大学で、鈴木宗男さんの事件で無念の退官をされた東郷和彦さんの講演会があったので聴講。大変お元気で、若い世代への期待を熱く語られていた。メッセージは3点(1)歴史(特に近現代史)を勉強していただきたい(2)世界に出て自分の目で見ていただきたい。そのためには語学は必須(3)(哲学を学び)自分の意見と哲学を持っていただきたい、ということ。全てそのとおりだと思った。(1)(3)についてはこの歳でもまだ可能だと思うので、今後意識的に読んで行こうと思った。
・(1)の手始めに、以前買っておいたまま読めていなかった本書から取りかかった。内容は、著者が以前文藝春秋に寄稿した論文に概要が記されていたので初めてという感じはしなかったし、同論文で言及されていた祖父東郷茂徳元外相の「交渉における51対49の精神」について感銘を受けたことも思いだし、一気に読了した。
<プロローグ(証言台)~第1章(ソルジェニーツィンにならって)>
・本書は、まず、06年6月21日に著者が東京高裁の佐藤優さんの背任罪控訴審に弁護側証人として出廷するところから始まり、国策捜査と言われる鈴木宗男さんの事件と著者の関わりが描かれる。
・02年2月から始まった外務省参与園部逸夫元最高裁判事等による著者への事情聴取について、当初著者は公正な調査であると考えていたが、徐々に後の国策捜査に連なる「鈴木宗男切り」が始まっており、著者と佐藤さんが鈴木人脈として一緒に切られることになっていたことがわかるとともに、リークが日常化し、受刑者に対するような対応をする外務省に対する怒りと絶望が率直に描かれる。(ちなみに、その時の心の支えになったのが西郷隆盛「南洲翁遺訓」「手抄言志録」や佐藤一斎「言志四録」とのこと。これらも確か買ってあったので後で読もうと思った。)
・鈴木宗男さんと外務省との関係は、おそらくここに書かれていることの方が真実なのではないかと思った。著者のように正面から向かい合った人とそうでない人(外務省主流派?)で、受けた印象は全く異なるのだと思う。
・鈴木さんや東郷さん達が批判された「二島先行論」という批判に対しても「「四島一括返還」という錦の御旗の主張さえしていれば国内的に批判されなくてもすむという事なかれ主義」ではいけないと、気骨のある主張を展開
・起訴された佐藤さんに対する謝罪の気持ちなどにも著者の真摯な姿勢が表れており、大変印象的であった。
<第2章ロシアとの出会い(青年外交官時代)>
・「祖父(東郷茂徳元外相)が背信行為に怒り、その娘である母(英語と独語が母語)が「こんちくしょうだったよ」と述べていたソ連(当時)・ロシアの専門となったのは全くの偶然で、在官中は日ロの信頼関係構築に努力したが、心の中ではいつも「こんちくしょう」と思っていた」
・しかし「「こんちくしょう」だけではない生きた人間関係が日ソ間にもあり得ることを把握。ゴルバチョフ書記長登場以降の日ソ、日ロ関係で領土問題の解決をも視野に入れた機会の窓が(私の見るところ)5回に及んだ」
<第3章ゴルバチョフ書記長の登場~第13章2001年3月イルクーツク>
・ここで、著者の言う5回の機会の窓を中心に歴史的、専門的な記述が続くが、以下印象に残った箇所を記す。
・「従来の議論は「政経不可分論(入口論、日本側、領土の前進がなければその他の前進もあり得ない)」と「政経分離論(出口論、ソ連側、日ソ全体関係を前進させることが先決)」の激突であったが、89年に日本側から「拡大均衡」(政治と経済を拡大発展・均衡させる、後に「重畳的アプローチ」に発展)を提起」
・「日ソの最大問題は領土問題であったが、シベリア抑留者の問題も重要。90年にはソ連が抑留者や死者の数で正確な情報を認め始めた」
・「ソ連崩壊とロシア連邦成立への流れの中で、ロシアからかなり思い切った92年提案があったことを確信しているが日本側の四島一括主張を弱めることへのいかんともしがたい拒絶反応とロシア側のナショナリズムの高揚等で消え去ったと思われる(3回目の窓)」
・「橋本総理とエリツィン大統領の会談は、従来の発想を改め「信頼醸成のために会おう」ということになった。これは、成果を逸するという面もあるが、(今までの日ロ関係に最も欠けていた)率直な人間どおしのぶつかり合いから生じる信頼関係を構築できるという面もあり、それが大統領の心を開かせた」
・「橋本・エリツィンのクラスノヤルスク会談(00年までに平和条約締結めざす)、川奈会談(平和友好協力条約をめざす、日本の国境線画定提案への一定の評価)における前進はあったが、両国で詰められる前に取材合戦が始まり、徐々に機運は失せていった」「この国境線画定提案の内容を早い時期に考えていたのは佐藤優さんで、平和条約締結への熱意が生み出した斬新な発想」
・「00年は、ブーチン代行の大統領当選→鈴木宗男特使との会談→小渕首相との会談の段取であたが、小渕総理が倒れたため→森首相誕生、最初の外遊先としてロシア訪問→プーチン大統領日本訪問、となった」
・「プーチン政権はロシア国民のナショナリズムに支えられているから領土問題にいかなる決断もしないという意見は多かったが、微妙な変化が起きていた」
・「プーチン大統領の「(2島返還の)56年宣言の確認」について評価しないあるいは2島決着を危惧する意見もあるが、新思考外交のゴルバチョフも、日本に好意的な発言をしてはばからなかったエリツィンもできなかった「56宣言の確認」は前向きに評価すべきである」
・これはしごくまっとうな考え方のように思うが「国内は極めて難しい状況になっていた。交渉が2島返還ないし2島先行返還に流れ、このまま進めると4島返還ないし4島一括返還の道を閉ざすことになる、こういう危険な動きをしているのが鈴木議員であり、その圧力に屈している軟弱官僚が東郷であるという、省内は4島一括を堅持する筋の通った正義派と軟弱派に割れているという報道がされ始めた」「00年夏以降のプレスへの不可解なリークと省内分裂報道に鑑み、(自分が提案したものではないが)参加者を絞った省内協議が増え、リークも減っていった」←非常に押さえた表現であるが、祖父東郷茂徳らが「一億総玉砕」などの勇ましいだけのかけ声が飛び交う中で命がけの終戦工作を行うため保佐の人間を排して行った「戦争指導者会議」になぞらえている。それくらい悲痛な決意をしなければならない状況だったのだろうと思う(佐藤優さんの本ではもっとあけすけに書かれているが)
・「プーチン大統領が01年3月のNHKインタビューで、2島返還を「我々にとって義務的」と発言したのには正直驚いた」「同月の森首相・プーチン大統領のイルクーツク会談(日本側からはプーチン大統領の発言を評価し(当然のことだなどと言わず)、2島引渡と残り2島討議の「並行協議」の提案)を経た01年4月5日が「島が一番近づいた日」」
・「これが順調に進んでいたなら残り2島の「出口」はどうなっていたか。3つの解答があり得た。(1)真剣に協議したがロシアは56年宣言のフルシチョフと同じ立場になる(2)残り2島の引渡もしくは択捉とウルップの間の国境線確定まで同意(3)ロシアが、日本が要求する権利は妨げないが現時点で歩み寄れるのはここまでという案を示してくる可能性、この中に「2島先行返還」論が入る」
・「しかし結局日ロ間の交渉が展開することはなかった。01年4月に成立した小泉内閣の田中外相が、交渉を73年の田中元首相訪ソ時に戻すと方針表明し、対ロ外交は大きな混乱に陥った」
・余談だが、この部分には、森・元首相の交渉への熱意や教養を垣間見させてくれる記述がある。以前読んだ筆坂秀世さんの「論戦力」にも、森・元首相のマスコミ報道からは伺えない誠実さが語られていたのが思い出された。また、著者の父上が今問題になっている「沖縄密約問題」当時の北米局長であり、条約の文言で苦労されたエピソードも紹介されている。
<第14章2005年3月モスクワ~エピローグ歴史への証言>
・退官後4年ぶりに訪れたモスクワの模様「過去4年間の日本の対応はロシアから見れば長年にわたって蓄積してきた交渉の基盤を破壊するものだった(第一波は田中外務大臣の「新方針」、第2波は鈴木宗男さんとその同調者を葬ろうという動き、第3波は04再開された領土交渉における日本側の強硬姿勢)」「第3波の際、日本側がどのような案を提示したかは明らかにされていないが、「国後・択捉の返還(ないし主権の確認)以外何者も認めない」と言うものであったとすると、交渉が止まっただけでなく、ロシアは「日本と一緒に解決策を探す希望はなくなった」と反撃に転じたように見える」
・「死の床にあった母から、祖父が交渉で一番大切なところに来たとき、相手に51を譲りこちらは49で満足する気持ちを持つことが外交で一番大事だと語っていたと聞かせてくれた」「交渉では自分の国の目の前の利益を唱えるひとはいっぱいいる、でも誰かが相手のことも考えて、長い目で自分の国にとって何が一番よいかを考えなくてはいけない、最後のぎりぎりのときにそれができるのは相手と直接交渉してきた人たちなのよ、その人達が最後に相手に51をあげることを考えながらがんばり通すことによって、長い目で見て一番お国のためになる仕事ができるのよ」「父(東郷文彦氏)も「こうしょうが半ばを越して双方でだいたいの輪郭が浮かび上がってくるころになると、今までいわば敵であった交渉相手が今度は後ろを向いて自分の国内の説得にかかる」と大体同じことを述べている」
・「我が日本国がほんとうに、交渉によって領土問題を解決しつつこれからの対ロ関係を進めていきたいのであれば、前線に立つ外交当局者はもちろん、国内において交渉を後押しするオピニオンリーダー、マスコミ、ひいては日本国民に、この51対49の精神を理解していただきたいと思う」
<解説(佐藤優)>
・最後に、佐藤さんによる丁寧な(東郷さんには尊敬と親しみを込めて、しかし東郷さんを含む外交交渉全体には突き放したかのような感の)解説が付けられている。以下印象に残ったことのみ記載
・「(3回目の窓を自ら閉ざした日本側のやり方に対する)東郷氏の批判(穏当な言葉を選んで記述しているが本質的にはとても厳しい批判を展開していると思う)を私も共有する、特に「取りすぎへの誘惑」は日本外交の交渉術における欠点を端的に示している。交渉が順調に進むと最後のところでハードルを上げてしまう傾向があることを自覚していない。だから失敗を繰り返す」
・「4回目の窓については、東郷氏が隙間に手を突っ込んで全開にしたと言うことだ、それが私が逮捕され、東郷氏が亡命を余儀なくされるとい道筋を整えることになる」「余談だが、この時期キルギスにおける日本人人質解放交渉で、東郷氏が他の外務省幹部との衝突を辞さずタジキスタンにおけるルートを活用したからこそ人質が無無事解放された」
・「(5回目の窓の後の)内政上の混乱の中で東郷氏が推進しようとした交渉自体が世論の厳しい逆風にさらされ、「国是である4島一括返還に反対する売国奴である」というレッテルが一部のマスコミで貼られていく」
・しかし、「実際のところ日本政府は、91年10月には4島一括返還の旗を降ろし、4島返還に政策転換をしていた。(国会の議事録や広報誌「われらの北方領土」ではさりげなく記載されてはいるが)そのことを国民にきちっと説明してこなかった理由は右バネの反発を大多数の外務官僚が怖がったからだと私は見ている」「東郷氏はそのことを勇気を持って(リスクを負って)マスコミをはじめとする関係者に伝えようとした一人であった。しかしいかんせん遅すぎた。国民の認識は4島一括返還から変わっていなかったのである」「この原因について、少し乱暴な言い方をすれば「我々は外交のプロである。我々を信頼して欲しい」というエリート意識を東郷氏や私を含む外務官僚が持っていたということだ。普通の国民の理解を得ずに外交はできないというイロハを尊重せずに外交に臨んだことのツケが東郷氏や私に回ってきたのだと思う」
<感想>
・以上の概要と佐藤さんの解説以上に付け加えるべき言葉はない。以上です。

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2010年06月13日 | 歴史、哲学 | こめんと 0件 | とらば 0件 | とっぷ

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