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9月 若冲~広がり続ける宇宙

(著者)狩野博幸(同志社大学文化情報学部教授、角川文庫)*平成22年5月25日初版発行
<きっかけ>
・京都にいて良かったと思うことはたくさんあるが、若冲の動植綵絵を相国寺承天閣美術館で見られたことは、その最たるものの一つだ。眺めるだけの素人だが絵のすばらしさは実感できた。
・その動植綵絵の制作過程を中心に、最近話題となった若冲の「像と鯨図屏風」(MIHO美術館で公開された)の発見にも深く関与し、若冲人気を作りあげた立役者とも言うべき著者の本が発行されたので、即購入
・内容もさることながら、全編にちりばめられたオールカラーの若冲の作品の数々を見るだけでも得をしたと思える本。これが780円で購入できるとは正直言って信じられない。
<概要>
・「若冲(四代目伊藤源左衛門)は、尾形光琳の没した年(1716年)に錦小路高倉南東角の青物問屋「桝源」の跡取りとして生まれた」「絵画は、まず狩野派に学び、中国の宋元画の模写を経て、それらを超えた独自の画風を確立した」
・「画風を確立する上で「自分の見ることができるものを書く」として鶏を選び、数年にわたり数十羽の鶏を庭に放って観察し続けた」(←若冲といえばやはり鶏!)」「その後、草木、他の鳥、虫や獣、魚類など生きとし生けるものすべてを観察し描いていった」
・「「若冲」号の由来については諸説あるが、若冲に決定的な影響を与えた2人の人物(相国寺の大典顕常和尚と売茶翁・月海元昭)のうち、売茶翁の茶具にしたためられた老子の詩(大盈若冲:巨大な容は空の時は沖(むな)しきが若し*冲は沖の俗字)からきているはず」「ちなみに、売茶翁は当時の京都の精神文化形成に決定的とも言える影響を与えた人物」
・「40歳で家督を弟に譲るが、これが彼のポイントオブノーリターン」「鶏から始まり、観察をし続けた総決算が「糸瓜群虫図」であり、そこでは病葉(わくらば)が執拗に描写される。この病葉に着目したとき若冲の絵画は大きく飛翔。以後病葉は若冲画のトレードマークとなり、華麗きわまる画面にも必ず登場するようになる(これが他の一般の画家、応挙などと異なるところ)」
・「若冲45歳の時、画業の集大成として花鳥30幅を世に残そうとした(後の動植綵絵)」「それらは相国寺に寄進され、毎年寺の儀式の時期に方丈室に掲げられ、一般の人々の鑑賞も許された。ちなみに、1872年の京都博覧会でも全30幅が展示され、以後の同博覧会で何度も展示された」
・「動植綵絵に感動した外国人(フェノロサ等か)が相国寺から購入するべく動いたが、当時の住職が断ったので、現在の我々はアメリカまで見に行く必要がないのだが、当時の相国寺が廃仏毀釈で廃寺寸前だったことを考えると、それは奇跡に近いこと」「相国寺は1889年に京都府知事の斡旋で動植綵絵を宮内省に献上、下附金を得た。動植綵絵が図らずも相国寺を救った」
・若冲の人物像についても、著者は「無名・孤高の画家などという俗説は全くの誤解で、当時からきわめて著名で人気の高い画家であった」「絵を書くことしかできない人物という説も最近の研究で覆された。町奉行所と組んで錦小路青物市場の営業停止を企てた五条問屋町の画策を、分断・抱込工作にも応ぜず、ねばり強い交渉で退けたリーダーでもあった(56~59歳)」と述べる。
<感想>
・動植綵絵をはじめ若冲の主要な作品の写真とその説明がたくさん掲載され、本当にお得感のある本だと思う。

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2010年09月25日 | 歴史、哲学 | こめんと 0件 | とらば 0件 | とっぷ

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