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11月 福の神と貧乏神

(著者)小松和彦(国際日本文化センター教授、ちくま文庫)*09年1月10日初版第1刷
 京都商工会議所の京都検定講座で小松先生の講義を受講した際いただいた本で、バブル崩壊後の98年刊行本が文庫化されたもの
 バブル崩壊を期に、民俗学の観点から幸せについて考え直そうとしたもので、七福神に選ばれた神様たちのことや選ばれた理由などについて詳しく勉強でき、京都の観光案内などには役に立つと思うが、正直、読むのが苦痛だった。(短い本だが)民俗学という学問は、それはそれで意味があるのだろうが、自分には全然理解できないようだ。以上

 

2010年11月01日 | 歴史、哲学 | こめんと 0件 | とらば 0件 | とっぷ

10月 日本はなぜ敗れるのか~敗因21カ条

(著者)山本七平(山本書店店主、角川oneテーマ21)*05年4月20日9版発行
<契機>
 不安定な対東アジア関係の起点とも言うべき2大戦辺りの歴史本を漁る中で発見。帯に「奥田碩氏が幹部に勧めた本」とあったがその理由がよくわかる。中国、韓国やアメリカを批判する前にぜひ読むべき本。歴史や公民の教科書とすべきような本(歴史を学ぶ意義と学び方がよくわかる)。「日本人とユダヤ人」「空気の研究」等で有名な著者が75~76年に雑誌連載したものを30年後(没後)初めて書籍化
<概要>
・本書は、著者が「現在我々が読みうる先の大戦の最も正確な記録」と評価する小松真一氏(比島で終戦を迎えた軍属技術者)の「虜人日記」に記された「敗因21カ条」をベースに、敗戦の原因等(=日本及び日本人が現在も抱える根本的な欠点)について考察したものである。
・著者は、虜人日記を「なぜ(先の大戦が)常識を基準として国も社会も動かず、常に世論という名の大きな虚構に動かされたのか」を考える最適の資料とし、その理由として、小松氏が、田原総一郎氏(当時は若手記者、ベトナム帰還兵へのインタビューの、記録者側が予め「予定稿」を持ちそれに合わない発言は「言い逃れ」などと敵視し都合のよい部分だけを採用する報道姿勢)などの反対に位置するもの(新聞報道等内地の虚構の影響を受けず、現地で現在形で冷徹な観察眼で記録)であることを挙げている。
・「小松氏の掲げた敗因21カ条は次のとおり。
 1.精兵主義の軍隊に精兵がいなかったこと。然るに作戦その他で兵に要求される事は、総て精兵でなけれなできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた 
 2.物量、物資、資源、総て米国に比べて問題にならなかった 
 3.日本の不合理性、米国の合理性 
 4.将兵の素質低下(精兵は満州、支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)
 5.精神的に弱かった(一枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱり威力なし)
 6.日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する
 7.基礎科学の研究をしなかった事
 8.電波兵器の劣等(物理学貧弱)
 9.克己心の欠如
 10.反省力なき事
 11.個人としての修養をしていないこと
 12.陸海軍の不協力
 13.一人よがりで同情心がない事
 14.兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついた事
 15.バアーシー海峡の損害と、戦意喪失
 16.思想的に徹底したものがなかった事
 17.国民が戦いに厭きていた
 18.日本文化の確立なき事
 19.日本は人命を粗末にし、米国は大切にした
 20.日本文化に普遍性なき為
 21.指導者に生物学的常識がなかった事」
 なお、以下の上記定式に関する記述は、すべて著者の解釈である。特に、著者は、敗戦の原因を全て物量の差(上記2)に記する考えを一貫して糾弾している。そこで敗戦を正当化する限り、また多くの命が無駄に失われることは必死であるという著者の体験に基づく指摘は重い。
<第2章 バシー海峡>(15関連)
 上記15に託して、日露戦争における旅順の無駄な突撃の繰り返しから毎年繰り返される春闘まで「機械的な拡大再生産的繰り返し」(翻って新しい方法論を探求するのではなく、それを敗北主義と決めつけ、ひたすら一方法を一方向に繰り返し、そこでの犠牲の量に自己満足、自己正当化する)の克服の重要性を強調している。バシー海峡に散った数十万の人たちは自国に殺されたと言うことだろう。
<第3章 実数と員数>(1関連)
 「(精兵)主義があれば精兵がいる、員数がいればそれだけの精兵がいるということにされ、それを疑うものは非国民となった。小松氏のいた比島でも「総兵力2万4千人とされていたが、戦闘部隊は2千人、部隊の武器は旧式歩兵銃が70丁という状態」であった」「内地から出した兵が制海権のない中で大半撃沈されても、あるいは、現地に何の武器がなくても「員数は員数」で無理な命令がくる。できぬと言えば精神が悪いことになる」
<第4章 暴力と秩序>(16、18関連)
 著者も小松氏も、戦中及び敗戦後捕虜経験の中で、日本人の暴力的本性とアメリカ人などの秩序性の違いを実感する。その原因を「日本軍を支えていたすべての秩序は文化にも思想にも根ざさないメッキであり、付け焼き刃であった。二重三重に塗られていたので、一度はがれるとメッキをほとんど受けていない者より醜状になった」としている。 
<第5章 自己の絶対化と反日感情>(13、20関連)
 「日本は自国の文化を普遍化して相手に提示することができず、その結果、相手の文化を理解することも、しようともせず、勝手な思いこみで相手を「矯正」しようとし、親日的であった人をも反日にした」「また、敗戦後、何よりも命と安全を保障しなければならない現地の対日協力者を無責任に放り出した」
<第6章 厭戦と対立>(12、17関連)
 小松氏の体験から軍上層部(プロ)の厭戦ぶり(上官から逃げ出すなど)が描かれ、「それは、秦郁彦氏が太平洋戦争を「プロが投げ、アマだけがハッスルしていた戦争」と定義しているとおりで、やがてはこの状態はアマにも浸透していく」「しかし、全体の心理的高揚に同調しない者は敗北主義者として糾弾された」
<第7章 「芸」の絶対化と量>(1、4関連)
 「われわれは長い間、一定制約下に「術」乃至「芸」を争って優劣を決める世界に生きてきたため、外部的制約が変わっても同様の絶対性を発揮できるという錯覚を抱き、やがて竹槍で原爆に対抗できるかのような神がかり的自信を発生させた」「物量の中にはその国の科学者や職工や農民の全てが含まれていることを見落とし、物量さえあれば勝ち得たという考える考え方そのものに敗戦の最も大きな原因があった」
<第8章 反省>(10関連)
 ここでは、西南戦争の時の敗軍たる西郷軍の思想が全く反省、教訓化されず、逆にそれが日本軍の思想になっていったことが克明に述べられる。「西郷軍は最後まで「官軍の物量に負けた、物量さえ同じなら負けなかった」として玉砕戦術を繰り返していった」「西郷軍も70年後の日本軍も、前提が違えば前提を絶対視した発想・計画・訓練は全て無駄になることが最後まで理解できなかった」
<第9章 生物としての人間>(19、21関連)
 著者が本書を著そうと思ったのは、小松氏の「軍閥は生物学を知らぬため国民に無理を強い東洋の諸民族から締め出しを食ってしまった」「日本は余り人命を粗末にするので、終いには上の命令を聞いたら命はないと兵隊が気づいてしまった」という記述に出会ったことであることが記される。これが当時の日本軍の本質であり、芸の絶対化とともに敗戦の最大の原因であるとしている。この章に最も感銘を受けたし、著者の見方に同意する。
 ただ、著者は併せて、本多勝一氏のように戦争から遠く離れた時代に「残虐人間・日本軍」という批判をする人たちについても、単に残虐行為を糾弾するだけでは当時の日本軍と全く変わらないと批判する。「ある状態に陥った人間はその考え方も生き方も行動の仕方も全く違ってしまうこと、そしてそれは人間が生物である限り当然のことであり、従って人道的とは、人間をそう言う状態に陥れないことであって、そう言う状態に陥った人間を非難罵倒することではない」と述べる。その通りだろう。
<第10章 思想的不徹底>(5、6、7、16関連)
<第11章 不合理性と合理性>(3、11関連)
 この2章はそれぞれ掲げた定式の通りだが、第11章の次の指摘は現代にも通じると思う。「日本軍は外面的組織は全てが合理的に構成されていたが、どこに位置づけて良いかわからない非合理な事象が発生すると全く機能せず無責任体制になった」「どんな組織でも細部や日常生活を規定しているのは結局その組織を生み出した社会の常識である。常識は共通の感覚であり非合理な面を当然に含む、しかしそれはその社会が持つ非合理性を組織が共有しているが故に合理的である」「しかし、社会から隔絶し、無理矢理合理的組織を作り、大仰なゼスチャーとスローガンと大声によって人々の思考と探求を停止させ、いわば個人を思索的に骨抜きにすることによって成立した日本軍は思想的に弱かった」「これは戦後も何ら変わっていないのではないか」
<第12章 自由とは何を意味するか>
 ここで著者は最初に掲げた疑問「なぜ常識が判断の基準にならなかったのか」を問い、「自由な談話」を保障することの重要性を述べる(「自由とは自由な談話の保障である」)。そして、戦後の、(悪である)戦前との対比で戦後の正当性を主張することに対して強く警告する(「日本にはまだ自由はない」)「すごい本だ」の一言に尽きる。以上
   

2010年10月31日 | 歴史、哲学 | こめんと 0件 | とらば 0件 | とっぷ

10月 アッシジのフランチェスコ

(著者)川下勝(清水書院)*05年3月10日第2刷発行
<きっかけ>
 NHK「世界遺産への招待状」イタリア・アッシジ編が「イタリアが愛した男」として聖フランチェスコを取り上げ、そのキーワード「小さき者として生きなさい」がとても新鮮だったのと、十字軍の時代にキリスト教とイスラム教の和解を試みたという逸話にも興味を引かれ、比較的新しい本書を購入
 そう言えば、映画「ブラザーサン・シスタームーン」や小鳥に説教する聖人の絵は見たことがあるような・・
<概要>
○著者はまず、800年前に生きたフランチェスコが現代の人々の心を惹きつけていること(信仰を異にする人々の集う「世界平和の祈り」の象徴、環境保護に携わる人々の聖人となっていること等)、そして、宗教的原理主義・排他主義と自然破壊・自己破壊の時代に彼の生き方を辿ることは大きな意義あると述べる。
○生涯
・マヨーレス(より大きな者、上流階級)とミノーレス(より小さな者、庶民階級)に分けられた封建時代に、ミノーレスから勃興した豊かな新興階級(豪商)の長男として生まれ、若い頃はマヨーレスになることを夢見ていたが、捕虜体験やハンセン病患者との出会いを通じて、十字架からの声を聞き、全ての財産(相続)を放棄して神と人々への奉仕のみに生きることを決意(24歳頃)、以後44歳で死去するまで「キリストの完全な写し」と言われる生活を送る。「カトリック教会の位階は助祭、司祭、司教(教皇は司教の一人)であるが、フランチェスコは永久助祭であった」
・「弟子が11人になったとき、教皇に正規の修道会と認めてもらうためローマに赴いた。教皇は彼らの身なりを見て「豚に説教しなさい」といったらそうしたので、後悔し彼らの願いを聞き入れた(小さき兄弟会誕生)」
・「フランチェスコは改革者になることは考えてもいなかったが、イエス・キリストを「貧しいキリスト」ととらえ、そのように生きようとし、結果として改革者となった(身分制社会で男も女も「兄弟として生きる」など)」
○思想
・「彼は物や栄誉等への執着が平和を破壊するとして、何も自分ものとしない道を選んだ。物における貧しさだけでなく「霊における貧しさ」も大事にした。後者は精神的貧困ではなく「謙虚な心、無私の心」の意(「心の貧しき人々は幸いである」(マタイ福音書)」
・「イスラム教徒にキリスト教の教えを説こうと十字軍の基地のあるエジプトに赴くが、その堕落ぶりに失望」「スルタンと直接話そうと弟子と二人でイスラム軍の陣地に」「スルタンと対話し最後は丁重に送ってもらった」「これはほぼ史実で、争いと対立の時代(13世紀)に画期的なこと」「教会が聖なる戦いと位置づける十字軍の時代に、フランチェスコは、武器ではなく、互いの協調と平和、他者、信条を異にする人々への尊敬と思いやりの中で生きることの大切さを説いた。他宗教とその信徒への深い尊敬と彼らと平和のうちに生きようという強い願望」
・「新プラトン主義(精神優位、物質軽視・肉体敵視)の影響の強かった当時、神の創造したものを等しく尊重する(太陽から大地、草木までを兄弟姉妹と見なす)フランチェスコは、1979年、時の教皇から「環境保護に携わる人々の保護の聖人」と宣言された」
・「争ったり、口論したり、他人を裁いたりせず、小さき者にふさわしく・・」「(世俗の会の)会員は武器を取ること、宣誓をすることが禁じられた」「会員たちは無利子で金を融資する共済基金を設立して、救済や福祉につとめた」
<感想>
 一つの生き方を徹底するとここまで広く大きく周囲を変えて行けるのかという驚きを覚える。正統派の三位一体をベースにしつつも、キリストを「貧しきキリスト」と捉え、それ(だけ)にこだわり続けたことが大きいのだと思う。
 私たちが皆「小さき者」として生きられたら本当にすばらしい世界になると思うが、実際は、個人も、組織も皆、こだわり、プライド等(「ダイアローグ」でいう「想定」)を持ってしまうので憎しみや争いが絶えないのだろう。(聖フランチェスコは「イタリアの守護の聖者」でもあるようだ。これはこれで良いのだが、やはり宗教の世界も国民国家(どちらかというと「想定」の根源)がベースにならざるを得ないということか。)以上

2010年10月08日 | 歴史、哲学 | こめんと 0件 | とらば 0件 | とっぷ

9月 「網野史学」の本(2冊)

(1)追悼記録網野善彦(赤坂憲雄(東北芸術工科大学大学院教授)編、洋泉社新書Y)*06年10月21日初版発行
(2)歴史と出会う(網野善彦著、洋泉社新書Y)*00年5月22日初版発行
<契機>
・東大出版会「UP」の8月号で「(網野さんは)膨大な東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)を読み解き、その調査から出発して、後に網野史学と称される研究を打ち立てた」(五味東大名誉教授)と、京都府(総合資料館)所蔵の国宝文書と網野史学についての記述を発見。網野史学については「もののけ姫」の独特の雰囲気のネタ本というようなイメージしかなかったので、この際と思い、手軽そうな2冊をアマゾン中古で購入
・鋭く魅力的な歴史観(ファンも多いが学会主流派は冷淡)だということはわかったが、中世などが中心のためこれ以上読み進もうとは思わなかった。
<概要>
(1)の本(死後2年ほど経過した時点でそれまでの各種追悼文等を編纂したもの)
 ・まず、編者であり「東北学」提唱者として知られる赤坂教授が書き下ろしで「網野史学の孤立」を語る。「学問の内実と言ったレベルでなく結局は歴史学会をめぐる知の地政学(が孤立をもたらしている)という疑念を払拭できない」「網野さんの歴史観そのものを「空想的浪漫主義」と断じて見せた(学会主流の)永原慶二氏を(網野氏の)傍らに配するとき、リトマス試験紙となるのは「無縁・公界・楽」への評価」「網野さんは、列島の歴史像を農業や農村といった有主、有縁の世界ではなく、非農業民的な無主、無縁の世界を基盤として描こうとした」「これから網野史学の第2楽章が始まる(マイネッケ流の「国民史」を脱却し、ブローデル流の重層的なネットワークの史学」へ)」
 ・その永原慶二・一橋大学名誉教授の追悼文「網野史学は70年代前半の、人々が「近代」に疑問を持ち出した状況に対応。厳しい身分制社会と捉えられていた中世という見方を疑い、海、川、山野など領主権力の及びにくい「公界」的空間を生業の場として自由に生きていた人々を見いだした」「しかし、悪しき近代に対置した中世の自由世界という構図は、現実における複雑な支配や貧しさと切り離される傾向が強い」「氏の描いた多彩で闊達な非農業民が、国家・権力の支配や民衆的多数者としての農民とどう関わったのかという全体像に迫るのが残された者の課題」→これはこれでそのとおりだと思う。
 ・各論考からわかる網野史学、網野さんの業績とは、「①人間が本来持っている「原始の野生」(自由さ)が国家や権力によって失われていく過程として歴史を読み解こうとした、②権力の及ばない空間である「無縁」の存在を明らかにし、中世の都市をそれに準じる自由の横溢した世界として捉えた、③これまで見過ごされてきた商人や職人、被差別民、女性などが歴史の中で果たしてきた役割を掘り起こし再評価した、④「百姓は農民だけではない」と強調、農業を中心に構築されてきた従来の水田一元史観を批判した、⑤日本が単一民族、単一国家として成立してきたかのような思い込みを繰り返し否定した、つまり網野氏はそれまでの日本史の常識の1つ1つに疑義を呈し、全てを相対化しようと試みた」(読売新聞記事)ということで、確かに評価が真っ二つに割れるのがわかる。
 ・最後の「歴史学の新動向について」(1986年のだがなぜか「遺稿」)は、ご本人が自説をコンパクトにまとめたと言えるもの。7世紀半ばに西日本で国家が成立、12世紀には東日本にも国家で東西対立、14世紀に2つの国家はそれぞれ解体し小国分立・・・と教科書で教わったのとは明らかに異なる歴史が語られる。
(2)の本(ある編集者が網野さんの対談やインタビューをまとめたもの)
 ・まず、網野さんの歴史研究の根底に「日本常民文化研究所」という、知の極致(遊び)のように思えるとても「贅沢」な組織での出会いや研究のあったことがわかる。現在は神奈川大学が運営(http://jominken.kanagawa-u.ac.jp/about/02.html)それを支えた渋沢敬三さんがすごいが、水産庁等の革新派役人の果たした役割も大きかったとのこと
 ・やはり一番おもしろかったのは網野さんの「もののけ姫」評論と、網野さんと宮崎駿さんとの対談だ。網野さんはこの映画を、自然と人間という二つの聖地が激突する悲劇(一方が生きるためには他方が犠牲になる)と捉え、この映画が、両者の衝突(人間が自然を畏れなくなったこと、又は、自然のアジールと人為的アジールがぶつからざるを得なくなったこと)の始まった室町時代を舞台にした見識等を高く評価している。宮崎さんも、大いに謙遜しているがこの時代のことをすごく勉強して(七人の侍的歴史観に対するはっきりとしたアンチテーゼとして)この映画を作っていることがよくわかる。まるでこの作品は、宮崎さんと網野さんの共同制作のように思える。
・「アジール」というのも網野史学のキーワードなのかよく出てくる(私は初めて聞いた言葉だが)。この本によると「世俗の世界から縁の切れた聖域、自由で平和な領域」のことで、「山(自然)から寺院、市庭(聖地)へ、そして自治都市へと広がっていったが、16世紀頃から俗権力の弾圧を受け縮小、せいぜい「縁切寺」程度になってしまった」ということである。
<感想>
・加藤さんの本などで近現代史には興味を持ったし、多くの人が学ぶべきものだと思えたが、中世や古代(そして「網野史学」にも)にはやはり興味は持てそうもない。網野さんが言うように(中世や近世に対する)歴史観を変えることが、これからの社会を間違ったものにしないためには必要、という風に思えないためか。以上




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9月 若冲~広がり続ける宇宙

(著者)狩野博幸(同志社大学文化情報学部教授、角川文庫)*平成22年5月25日初版発行
<きっかけ>
・京都にいて良かったと思うことはたくさんあるが、若冲の動植綵絵を相国寺承天閣美術館で見られたことは、その最たるものの一つだ。眺めるだけの素人だが絵のすばらしさは実感できた。
・その動植綵絵の制作過程を中心に、最近話題となった若冲の「像と鯨図屏風」(MIHO美術館で公開された)の発見にも深く関与し、若冲人気を作りあげた立役者とも言うべき著者の本が発行されたので、即購入
・内容もさることながら、全編にちりばめられたオールカラーの若冲の作品の数々を見るだけでも得をしたと思える本。これが780円で購入できるとは正直言って信じられない。
<概要>
・「若冲(四代目伊藤源左衛門)は、尾形光琳の没した年(1716年)に錦小路高倉南東角の青物問屋「桝源」の跡取りとして生まれた」「絵画は、まず狩野派に学び、中国の宋元画の模写を経て、それらを超えた独自の画風を確立した」
・「画風を確立する上で「自分の見ることができるものを書く」として鶏を選び、数年にわたり数十羽の鶏を庭に放って観察し続けた」(←若冲といえばやはり鶏!)」「その後、草木、他の鳥、虫や獣、魚類など生きとし生けるものすべてを観察し描いていった」
・「「若冲」号の由来については諸説あるが、若冲に決定的な影響を与えた2人の人物(相国寺の大典顕常和尚と売茶翁・月海元昭)のうち、売茶翁の茶具にしたためられた老子の詩(大盈若冲:巨大な容は空の時は沖(むな)しきが若し*冲は沖の俗字)からきているはず」「ちなみに、売茶翁は当時の京都の精神文化形成に決定的とも言える影響を与えた人物」
・「40歳で家督を弟に譲るが、これが彼のポイントオブノーリターン」「鶏から始まり、観察をし続けた総決算が「糸瓜群虫図」であり、そこでは病葉(わくらば)が執拗に描写される。この病葉に着目したとき若冲の絵画は大きく飛翔。以後病葉は若冲画のトレードマークとなり、華麗きわまる画面にも必ず登場するようになる(これが他の一般の画家、応挙などと異なるところ)」
・「若冲45歳の時、画業の集大成として花鳥30幅を世に残そうとした(後の動植綵絵)」「それらは相国寺に寄進され、毎年寺の儀式の時期に方丈室に掲げられ、一般の人々の鑑賞も許された。ちなみに、1872年の京都博覧会でも全30幅が展示され、以後の同博覧会で何度も展示された」
・「動植綵絵に感動した外国人(フェノロサ等か)が相国寺から購入するべく動いたが、当時の住職が断ったので、現在の我々はアメリカまで見に行く必要がないのだが、当時の相国寺が廃仏毀釈で廃寺寸前だったことを考えると、それは奇跡に近いこと」「相国寺は1889年に京都府知事の斡旋で動植綵絵を宮内省に献上、下附金を得た。動植綵絵が図らずも相国寺を救った」
・若冲の人物像についても、著者は「無名・孤高の画家などという俗説は全くの誤解で、当時からきわめて著名で人気の高い画家であった」「絵を書くことしかできない人物という説も最近の研究で覆された。町奉行所と組んで錦小路青物市場の営業停止を企てた五条問屋町の画策を、分断・抱込工作にも応ぜず、ねばり強い交渉で退けたリーダーでもあった(56~59歳)」と述べる。
<感想>
・動植綵絵をはじめ若冲の主要な作品の写真とその説明がたくさん掲載され、本当にお得感のある本だと思う。

2010年09月25日 | 歴史、哲学 | こめんと 0件 | とらば 0件 | とっぷ

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